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メメントモリのイベントを終えて。肉体があってこそ・・・

20年目の1.17。


今日はかずぼんとコラボのメメントモリのお話会&ヨガと瞑想イベントを行いました。
急きょ場所を変更し宝塚の自宅で行った今回のイベント。


ヨガとプラーナーヤーマ(呼吸法)のあと、

まだ光にかえることのできていない魂があればその魂が光にかえることができるように
遺された人たちの中で傷が癒えていない者があればその傷が癒えるように
神戸一体の地に刻まれた地震という記憶が癒されるように
そして今生きている私たちが日々生かされていることに感謝することができるように

祈りを捧げました。


メメントモリのお話の中では死に対してどう思うかという質問が投げかけられました。


私は昔はとても怖いものだと思っていました。
死んだらどこにいくのか。
死んだら孤独でひとりぼっちになるのではないか。
真っ暗い、ブラックホールのような、つかみどころのない“死”というものが
ただただ恐怖でしかありませんでした。


でもヨガを学んでから、“死”は通過点なのだと思えるようになり
最近シータヒーリングで亡くなった人と話をするというのをやった時に
(そこサラッと流しますwww)
遺された側がその人の“死”を可哀想とジャッジしているだけで、
故人そのものは意外にもあっけらかんとしていたというのを見た時に
やはり死は通過点なのかもと改めて思ったのでした。


もちろん亡くなったらみんながみんな光にかえっているかというとそうではきっとなく
この世に未練、執着が残っている魂もあって
それが幽霊というものだと思うのですが(私は見たことないけれど)
病気で苦しんで亡くなったとしても、意外とこの世に未練のない魂もあるということ。


じゃあなんで“生きる”ってことと“死ぬ”ってことがあるのかというと


生きるということは肉体を持ってしか経験できないことを経験するため
死ぬということは肉体を脱いだ状態でしか経験できないことを経験するため


肉体があるからこそのわずらわしさ、ストレス、みんなそれぞれいろいろあると思うけれど
肉体があるからこそ感じることができ、味わうことができ、経験することができる。
その感覚感情は何のためにあるのかというと


“自分がなにものなのかを思い出すため”


と私は理解しています。


でも本当のところはどうかわからないので
いつだったかなんだったかテレビで見たフレーズ


信じるか信じないかはあなた次第です!!


今日も最後までお読みいただきありがとうございました♫


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※写真は5年前に富士山に登った時のご来光

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